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当ページの方針について、エッセイ形式で発表していきます。


「教祖さま」の見分け方

 超常現象というのは宗教に限りなく近い所に存在している。
で、あるから気を付けていないと宗教の世界に入っていってしまう。
 宗教にはたいてい「教祖さま」が存在する。
「ウンモ事件」などはコンタクティ系事件に分類されるにもかかわらず、不思議なことに「教祖さま」がはっきりとは存在していないが、それでも「ウンモ星人」を利用して布教する人々は存在する。
もっとも私は「ウンモ星人」とは「スペインのフランコ独裁政権下で自由な意見を言えない人々(共産主義者や宗教関係者等)が生み出した、一種の共同幻想か、判っていてのでっちあげ」と今は考えている。
 「教祖さま」の特徴として挙げられるのが、「俺はあいつらとは違う」という主張である。
「特別な人間であり、他に類する人間がいない」というのは、神との接触を主張する人間には大事な条件なのだろう。
各コンタクティ派閥の意見を挙げて見るのもいいのだが、それはみなさんがやっておられるので、ここでは他のたとえ方をしてみよう。
 素人コンタクティと呼ばれる人々がいる。つまりメジャーな宗教・哲学団体の結束には到っていないが、地球外生命との接触を主張する人々だ。例えば「カゼッタ岡」氏がそうなのだが、そのうちの結構な割合が、その人を「横尾忠則」や「山本譲二」と一緒に扱うと怒ってしまったり、彼らの発言を自分を棚に上げて笑ったりする。「あいつらの見たのは幻覚で、俺の見たのは本物だ」と主張される訳である。
 なぜそう断言できるのか・・それは彼らが「教祖さま」だからである。私のような凡人なら「ああ、俺の見たのも幻覚で、あの人達と一緒かもしれないな」と冷静に判断できたりするのだが、「特別な存在である」彼らには「プライド」(笑)からして許されない行為なのだ。そして「ありもしない幻覚を見る」事は「ステージの低い、恥ずべき事」のようなのである。「教祖さま」たちの話を聞いてみると、誰も彼も「自分を特別な存在と思いたい」人たちだと判る(中には冷静な判断ができるのに「教祖」になっている人もいるだろうが)。しかもそう思いたい方々は驚くべき事に結構多いのである。
 彼らには「たまたま疲れていて、ありもしない物をみたんじゃない?」という意見は通用しない。「俺は悪い宇宙人に首を絞められたんだ、この跡が証拠だ」などと、「主張」されたりする(笑)。信者も付き合わなければならないので大変だろうねえ。
 除霊などを行う方々の「教祖さま」にも色々いらっしゃる。「鏡をボロボロにされたのは悪い霊の仕業です」とか「流しに長い髪の毛が詰まっていたのは悪霊の仕業です」とか言ってぼったくる方々の事だけれど、うっかり(故意に??)その「証拠」を捨ててしまったりする。取っておけば科学的調査とか遺伝子を調べるとかできたのにねえ。それはさておき、こういう方々も他の「霊能者」と一緒にされると怒る人が結構いる。やっていることはそう変わらないのに。
 これは決して「円盤教」「心霊教」にはとどまらない、宗教が色々な派閥に分かれていく過程には「俺は他の連中とは違う」という方が介在している場合が結構あるようなのだ。
 一般の人々が客観的に見ているように思える場合にも、「ムー大陸やUFOは信じないが『神々の指紋』は信じた」とか、「ネッシーは全て作り物だが『ノストラダムス五島勉説』は正しい」だの、「教祖さま一歩手前」の笑えない方々が結構存在している。
 オカルト(多分、他の物事も)は「正しい」と「間違っている」、「存在する」と「存在しない」、「真実」と「嘘」、「信じる」と「信じない」でとらえるものではないと思う。答えがどちらであってもいい場所に自分を置いて、冷静に眺める(笑う?)のが一番大事なのではないだろうか? その方がずっと楽しめると思う。


「鉄道模型」と「UFO」

 全く関係ないように見えるこの二つだが、実は「両方好き」という人は結構存在する。
この事について考えてみたい。
 「鉄道模型」というと、実物の鉄道車両を一定のスケールで縮小し、細部まで忠実に再現した物と思われているかもしれない。
しかしこの「スケールモデルとしての鉄道模型」は数ある鉄道模型の楽しみのほんの一面にすぎない。
このあたりにちょっとおつきあい願いたい。
 例えば日本初の「鉄道模型」は「実物」より先に伝わっているし、「実物」より先に作られている。
1853年に浦賀にペリーがやってきたとき、その艦内に大型の鉄道模型があったとか、ある藩が職人に蒸気機関車の模型を作らせたとかいう話も存在する。
(「実物」の開通は1872年を待たなければならない)
「交通機関の発達」(学習研究社)によれば、電気機関車の「実物」は1879年にドイツのジーメンスがベルリンの商工業博覧会の会場で試運転した事が記されているが、1837年ごろにはアメリカの鍛冶屋が電気で動く鉄道模型を作っていたのだともいう。
「リニアモーターカー」の「実物」が登場するのは国鉄100周年の1972年、ML−100型の登場を待たなければならないのだが(その前は「機械」だ)、「鉄道模型」ならばその2年前の1970年、大阪で開かれた万国博覧会の会場で運転されていたのをご記憶の方も多いだろう。
そう、「鉄道模型」のいくつかは「実物」よりも先に作られてしまうのだ。
積水金属で製造された201系電車(JR東日本中央線で使用されているオレンジ色の電車)の模型のバリエーションの中に山手線塗装のものがあったが、実際には山手線で201系電車が使用されることはなかった(今後も無いだろう)。
ついでに言えばこの「車両」、アニメ「さすがの猿飛」の最終回にも登場している。
これは「先に模型を作ってしまった」為に起きたことだ。
 また、戦後に製造された「湘南電車」の模型に、「実物」では最低4両繋げないと走らないにも関わらず、1両で運転できるように前後に運転台を備え、全長も少々短くしたものも存在した。
いわゆる「ショーティー」の例だが、これは日本の家屋で運転する場合、広い場所がとれない事とも関連している。
自分の家のスペースに合わせて鉄道を「敷設」し、そこに合う「車両」を運転する。
実物だって敷設する地形などに制約を受けるのだから、模型でもそうするというのは正しい。
湘南電車の場合だって、この時代にローカル線用の電車を国鉄が設計したならこんな感じの「クモハ81」が登場していたことだろう。
「この規模の鉄道なら1両まるまるグリーン車ではなく、『半室グリーン車』だろうな」とか「大手私鉄の車両が自分の鉄道に譲渡されたとしたら、どんな感じになるのかな」とか「電化された私鉄の貨車だから台車も電車用かな」とか考えて、オリジナルの車両の設計をしたり塗装を変えてみたりする人たちも多い(私もそうだ)。
そう、鉄道模型は実物をガチガチのスケールモデルにして表現しなくてもいい。
飛行機の模型でも「ホルテンを黒いチューリップにしてみました」なんて人はいるだろうし、ガンダムだったら「俺の設定した部隊のザク」みたいなものだろうか。
 もっとも頭の堅い人たちも存在し、EH500(JR貨物の大型電気機関車)にカシオペヤ(JR東日本の寝台列車)を引かせたりすると陰口をたたく人もいる。
いいじゃんねえ、それが「模型」なんだから。
そもそも「カシオペア」はそれ自体でサービス電源を確保できるのだから、機関車は問わないはず。
実物の世界でも西武鉄道の電気機関車の引退時、JRの12系客車を引かせた事があるじゃないか、何が起こるか判らないのが「実物」の世界だ。
(こういうふうに「うんちく」を使うなら正しい「うんちく」の使い方を学ぶべきだ)
「お前『スケールに基づけ』なんていうなら実物にはありえないカーブの線路なんか使うなよ」って言いたい。
D51を2両継いでオリジナル機関車を作っても良いし、「俺鉄道の社長専用車」(豪華でもしょぼくても)を作っても良いし、最近はメーカーが(どことは言わないが)「幻の機関車C63!(実物では計画のみに終わった)」なんてやったりする。
現代風レイアウト(鉄道模型を運転するための箱庭)に「弁慶号の引く列車」が走っても良い。
復活運転の可能性はいくらでもあるじゃないか。
(もちろん客車は古典客車にすべきだが)
自分の哲学(ここでは「スケールモデル哲学」か)に合わないからと言って「ありえない」「おかしい」と考える方がどうかしている。
それが「鉄道模型」の世界なのだ。
 さてと、これを「UFO」に置き換えて考えるとどうだろう?
例えば「鉄道模型ファン」と「スケールモデル的考え」の関係というのは「UFOファン」と「UFO宇宙人説」の関係に似ているような気がする。
「リアリティ」を与えるやり方が間違っていたのか、妙に暗い方向に向かい、素人には取っつきにくくなり、そこから今までの考えとは異なる流れ(それも原点に立ち返るような)が出てきたというのも何か似ている。
ただ「UFO」には(未確認生物なども)2004年4月現在、専門雑誌が存在しないし、「UFO」を扱った雑誌が有ると言っても原点である「確認できていない飛行物体として扱おう」という意見が表明できたり、自由な意見が交換される場ではない。宇宙人説べったりだ。
(もちろん今後正しい意味での「UFO雑誌」が出てこないとも限らない)
逆に言えば「これからが面白い」とも言える。
映画やSF、漫画やアニメ、特撮にゲーム、模型におまけフィギュアなどは専門誌がいくつも存在し、知識はそこからいくらでも得られるものの、「UFO」にはそれがない。
今の内に知識を得ておけば、あなたも「UFO業界」で活躍できるかもしれない。
妖怪の世界における「季刊『怪』」なんかはエンターテインメントとしてもかなり楽しめる内容だが、以前はこんな本が出るとは思えなかった。
超常現象関係も「たのしい超次元」とか、どこか出さないかな?
「これがお菊人形のメカニズムだ!」とか「奇怪菌類ヤマウバノカミノケ」とか「フラットウッズモンスターに関連する人々」とかさ。
「地球空洞説に関する文献の歴史」、「カーゴタルト信仰って本当は何?」でもいいじゃないか。
(正確には「カーゴカルト」、これで調べれば何件か出てきます)
ネタは結構あると思う。並木伸一郎さんや南山宏さんをつっつけば(笑)・・あ、無理かな。
 「鉄道模型趣味」を戦後すぐから発行している「機芸出版社」はちょっと小さく、趣味集団のような所があるという。
超常現象雑誌にもこういうのが必要だと思うのだが・・


なぜ「UFO話」を「ガンダム」のように面白がれないのか?


私はいわゆる「ガンダムオタク」がとても羨ましい。
みんな「ガンダム」という作品が好きで、その上で「この演出はちょっとおかしいんじゃないか?」とか「この部分の作画はちょっとひどいんじゃないか?」などと語っていたりする。
私はいわゆる「機動戦士ガンダム」(とその映画版3本)を見た他は「Z」を何話かしか見ていない。
(「Z」はリアルだとは思ったが、話が暗くて自分には合わなかった。その後は他にやりたいことが増えてアニメを見る時間自体無くなってしまった)
しかし「ガンダム」という作品が、とても上手く世界観を作っている様子は知っているつもりだ。
たとえば「ミノフスキー粒子」(簡単に言うと、レーダーを無効にし、重力の働きをうち消す事のできる架空の粒子)などと言う物が、実際には存在しないことを知っていて、その上で「もし実在したら」という話ができる。
「ガンダム」が軍用なのに目立つ白色なのについて「試作機がそのまま戦場に出てしまったからさ、ほら、フランスのラファール戦闘機の試作機だって白と赤と青でしょ」と語れる。
機体についている開発番号だって実際の兵器を研究して上手くつけているし、敵の兵器の名前が判るまで「新型」と呼んでいる様子とか、敵のパイロットだって普通の人間で「悪者」では無い様子とか、しっかり作った上で「ガンダム」はヒーローロボットとして描かれている。
上手く描かれているからこそ、敵の司令官が西洋の壷に似た「北宋の白磁」を愛でるシーンを見て、「あの人、骨董屋からすれば『いいお客』だよね」とゲラゲラ笑う事ができる。

「ガンダム」を例に挙げたのは、この作品の世界における「設定」を作る遊びが、視聴者(ファン)の方から盛り上がった事を、世代的に私が知っているからだ。
そりゃどんな「制作物」だって色々と不備な所はある。
「ガンダム」の場合、そんな所のフォローをファンが回答していったという点に特徴があるのではないだろうか?
見ている人は自分の「ガンダム」以外の知識、航空宇宙や軍事的知識のみならず、歴史や地理、自然科学や物理学、経済や政治、人文から言語学、民俗学、演劇や美術、その他あらゆる「理論」を動員して「ガンダムの世界」を作っていった。
これには当時、こういった「ファンの側から出た設定」を「オフィシャル」が取り入れる気風があったのも、一つの要因だと思う。
アメリカではこういう例が結構あると聞いているが、日本のフィクションではあまり聞いたことがない。
たとえば「うっかり八兵衛はなぜ水戸黄門一行に付いて回るのか?」「宇宙戦艦ヤマトの第三艦橋は何のために付いているのか?」をファンの側は「おかしいよね」で終わりにしていた部分があると思う。

実は「UFO神話」もまた、「ガンダム」と同じなのではないか?
と私は考えている。
表向きは「実際の目撃証言以外は切り捨てる」と言うことになっているのだが、中には相当数「良くできたウソ」も混じっている。
そもそもそれ自体が「未確認」なので誤認の元ネタも各目撃事件で異なって当たり前、他でも言っているが「不思議」だからと言ってすべて一つの理論で片づく筈がない。
ここを始めた理由とも関連するのだが、私自身は「グレイ」関連の事件や、社会不安を煽る「ムー」の方針はどうも好きではない。
アニメでたとえるなら「エルガイム」くらいのリアルさは良いが、「Zガンダム」まで行ってしまうとどうも・・・という事になってしまう。
せっかく作った「世界」なんだから、もう少し明るく楽しい考え方があっても良いと思う。
そもそもメディアを通しているのだから、どこか娯楽の要素があっても別におかしくない。

超常現象は現実を写す鏡でもある。
人々が明るい未来を想像するなら奇跡のような現象が起こる。
また暗い未来を想像するなら悪夢のような事件が起こる。
現実世界で日本がアメリカの言いなりなら、宇宙人の形もアメリカでの目撃証言そっくりになる。
でも実は、「鏡の中の世界」から「現実」を変える事もできるんじゃないかと、私は思っている。
今まで誰も成功していないだけの話で。

そんな世界の中の事に対し、「ある」「ない」を議論したり、「科学的検証」を導入したりというのは、別に他の人がやってもかまわないけれど、私はやる気がしない。
「対象」となっている物が、姿をくらましてしまうだけだ。
そしてそれは少し経つと全く別の所にぼこっと現れたりする。
ガンダムの話で触れたように、我々の持っている「ものさし」は「科学」だけではない。
ひょっとしたら「言葉遊び」や「洒落」で読み解けるかもしれない。
「歴史的な背景」とか「『こっちを信じると言った方が面白い』という心理」も重要な構成要素だろう。
もっとも冷静になって、「今考えている事は本当に正しいのか?」と思う気持ちは大切であるが。
超常現象を無くす方法はたった一つだけある、全ての人間が何を見ても「別に不思議じゃないじゃん」と思う事である。
でもそれは本当の悪夢だし、現実問題として「私の知らない『何か(そのいくつかは全くばかげたもの)』が飛んでいる」という人は今日も存在しているのだ。


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