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第一回ものぐさ太郎サミット


「ものぐさ太郎」を通じて地域の活性化を考えている松本市新村地区、今回は松本大学で「ものぐさ太郎サミット」として、「ものぐさ太郎」の伝説のある長野県内各地域の代表者を招いて、懇親を深めるというイベントが行われました。
今回、私も関係者の方より御連絡をいただき、これらの地域とは全く関係ないものの聴講させていただきました。



サミット会場入口にあった立て看板。
ものぐさな土地柄なんて大ウソ、大変凝っています。





入口に掲げられた、ものぐさ太郎の凱旋(?)の図





こちらは「発掘」された「太郎の石枕」。
こういうのは私大好きです。



ものぐさ太郎の墓、ここに展示されていただけで三カ所ありました。
宮本武蔵等と同様、伝説化されるとあちこちにお墓ができるようです・・?
これは穂高町と本城村のもの。



松本市島立地区の沙田(いさごた)神社にも、ものぐさ太郎の塚があります。



英訳されていた「ものぐさ太郎」。
表題の意味は「何もしない太郎」。
あちらにも「丘の上にいて毎日何もしない青年の話」(フール・オン・ザ・ヒルなどと呼ばれる)があるようですし、こういう話は全世界にあるのかもしれません。



新村の方々による、「物臭太郎」(北原白秋作詞)の合唱が行われました。



「ものぐさ大学」理事長、横山氏による挨拶。
世の中色々な大学があるものです。



松本大学の腰原教授による基調講演。
物語の構造である、「立身出世」、「求婚」(平安時代は和歌に依っていた)、「貴種流離」(いわゆる「ご落胤」伝説)といったところから始まり、
口承による伝説から写本、版本への流れとその間の物語の変化。
制作の上でのモデルがいたのか?や実際にまとめた人々(僧侶や公家等)の話まで、「ものぐさ太郎」の基本を判りやすく解説して頂けました。
私としてはもう少し時間があれば・・といったところでした。



その後「おらが太郎さん」として、各地域の代表による「ものぐさ太郎」伝説に関する意見が発表されました。
新村地区からは大久保さん。
「ものぐさ太郎」がこの地域の人だったという根拠として、

・多くの「ものぐさ太郎」関連の書物の脚注で「あたらしの郷」は松本市新村地区とされている
・正徳、享保の頃にはこの地に「田畑が開かれる事に依り、『ものぐさ太郎』の腰掛けたという桜が弱っている」という話があった。
・この事は明治時代に古跡として筑摩県(当時)に提出された資料にも書かれている。
等が挙げられました。

当HPでは既に紹介していますが、現在その遺跡地は町会・公民館・老人クラブにより整備されています。
(あの歌碑は折口信夫さんによるものだったんですね)
現在では「ものぐさ太郎祭り」も行われています。
またこの地では子供の頃から「ものぐさ太郎」の話を聞き、よく知っているとの事です。



続いて穂高町代表の望月さん。
「ものぐさ太郎」がこの地の人であった根拠として、
・嘉永二年に書かれた「善光寺道名所図絵」に「安曇郡保高神社のほとりに墓がある由」と書かれている。
実際に穂高駅西方に「二本松」と言われる塚があり、古来より「ものぐさ太郎の墓」とされている。
・穂高神社若宮社には「信濃中将」として「ものぐさ太郎」が祀られている。
等を挙げられました。

穂高には古文書勉強会というものがあり、専門家の方を招いて教授を受けているとの事でした。



三人目は島立地区の丸山さん。
ものぐさ太郎がこの地域の出身者だった根拠として、

・沙田神社境内に「ものぐさ太郎」の墓がある。
・神社近くの地名が「館の前」(たてのまえ)であり、高貴な人の館、つまりは太郎の父「二位の中将」の館だったのではないか?
・島立荒井にある「清水ヶ城」の築城者として、「ものぐさ太郎」に出てくる地頭「新左右衛門之尉信頼」(あたらしのさえもんのじょうのぶより)の名が伝わっている。
・竹の四本柱とはこの神社にある御柱(神社の周囲に立てられた木の柱)を暗示するのではないか?
(御柱は諏訪系の神社によく見られるが、この神社は諏訪系ではないとの事)
等を挙げられていました。

この地には古代の区画整理である「条里制」の遺構が見られるので、昔からそれをまとめる権力者がいたのではないか?という話や、「お乳神社」近くに「うちの先祖が『ものぐさ太郎』にお乳をやったという人がいた」という話(場内爆笑)、かつてこの神社の境内にあった泉で先生に色々教わっている所に、浮浪者の子供が来て「あの子も将来『ものぐさ太郎』になるかもしれない」と言われたいう思い出話もありました。



四人目は本城村の山崎さん。
「ものぐさ太郎」がこの地の人だった根拠として、

・「物種太郎の墓」が存在する。
(かつては種は「くさ」と読んだ・・例:「種々」と書いて「くさぐさ」など)
・古来よりの地名「鷹落山」(たかおろしやま)は、この地が狩猟地であった為名付けられた。
「鷹狩り」を行うには最適の場所である。
・「あたらしの郷」が「みたらしの郷」であるなら、この地の地名「乱橋」に通じる。
等が挙げられました。

「どこがウソをついているんだろうか?」発言には場内爆笑でした。



現代の「ものぐさ太郎」、新村の川合さん。
「ものぐさ太郎」のモデルを徹底して研究されました。

1.ものぐさ太郎に近い人物
文徳天皇の時代、850年代に信濃の守であった人物は源多(みなもとのまさる)。
仁明天皇の子であり、親戚には六歌仙の遍照や在原業平がおり、自信も優秀な人物だった。

2.ものぐさ太郎の父を捜す
物語の中で、「ものぐさ太郎」の父は信濃に流される。
この年代に近い事件としては「承和の変」(842年)が挙げられる。
この後天皇家は力を失い、摂関政治が始まる。
物語の仁明天皇の子、深草天皇の子、二位の中将は恒貞親王ではないか。
恒貞親王は無実だったものの出家したとの事です。

3.この地の事を書き残した人物
852年、信濃の介であり文人政治家であった清原秋雄が、信濃について書き残した事が元になったいるのではないか?
「ものぐさ太郎」が忍び込んだ「豊前の守」の屋敷は、「信濃の介から豊前の守になった」清原秋雄の屋敷を意味しているのではないか?
「豊前の守」が信濃について知っている人物であったなら、太郎が咎められなかった事に説明が付く。

といった事から、この物語は後世の公家作家が天皇家の威厳の復興を願って書いたのではないかと推測されています。
語り口も面白く、とても素晴らしかったです。
やはり学とユーモアを兼ね備えた「ものぐさ太郎」にふさわしい方ですね。



吟詠の原さんにより「ものぐさ太郎」作と言われる和歌が詠まれました。



深志高校教諭の細川さんを交え、パネルディスカッションが行われました。
実際には時間が短く、「激論バトル」になる前に終わってしまいました。



新村の柳澤さんによる閉会のあいさつ。
これからも「ものぐさ太郎」が知られていく事を願って閉会となりました。

また今回、地酒やストラップの販売や、地元の人の作ったお菓子「太郎の石枕」の試食も行われました。

今回の会合は「ものぐさ太郎」を知る上で大変参考になりました。
お知らせいただいた新村の方々に感謝させて頂きます。
来年もぜひこのような会合が開かれることを願っています。



帰りに立ち寄った「ものぐさ太郎遺跡地」にて。
祭りの準備でしょうか?






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