ものぐさ太郎関連用語集
「ものぐさ太郎」を読み解く上で、話に出てくる言葉や話の構造などについて調べるのも必要と思い、このコーナーを作りました。
間違いあるいは異説等ございましたらよろしくお願いします。
・あたらしの郷
ものぐさ太郎が住んでいたという地名。
あらた(荒田)の郷、「新江」(新郷)などとも書かれる。
新しく開かれた土地を意味している。
多くの書物の解説で「長野県松本市新村の事か?」とされている。
奈良時代以降、墾田永年私財の法(耕した田は耕した者の土地となる)などにより、貴族、寺社、豪族、有力農民により新しく開墾された私有地(荘園)が増えた。
開墾には口分田(貸し与えられた土地)を逃げた農民が当たった。
浮浪者もかり出されたようであり、私はこのような土地柄だからこそ、太郎のような人物がいても不思議ではなかったと考えている。
また後にできた制度なのだが国司に任されて土地を耕作し、税を納める田堵(有力農民)も新たに土地を開発し、中央の貴族に寄進する動きも出てくる。
(田堵は後の名主や庄屋であるという)
やがて荘園の多くが税を逃れるため貴族・寺社に寄進され、その規模を拡大していく。
また荘園を守り、勢力を拡大していく事から武士が産まれていく事になる。
・高札
触書を書いた立て札。
一般に昔の農民は無学で文字も読めない人が多かったとされる場合も多いが、「ものぐさ太郎」に触書を書いた高札が出てくるのはどういう事だろうか?
これはもちろん俗説が間違いで、農民の多くは文字が読めたという事を意味している。
戦乱の世の中がどうであったかは判らないが、それ以前の時代には農民も和歌を詠んでいるくらいだから文字が読めて当然と思われる。
奈良市柳生の疱瘡地蔵に書かれた「正長の土一揆」の碑文を見る限り、室町終わり頃の農民も字が書けたのではないだろうか?
落語でも文字の読めない人をバカにするネタがあるが、これは聞いている人間が文字を読めるからこそ笑えるのであり、「ものぐさ太郎」の広まった江戸時代には寺子屋の普及などで庶民も文字を読めたと思われる。
また長野県は開智学校の例を引くまでもなく、早くから教育に力を入れていた土地柄である。
・国司
律令制のもとで、諸国に派遣された役人。
戸籍を作成したり、租税の徴収を行った。
「守(かみ)」や「介(すけ)」といった役職がある。
「ものぐさ太郎」は最後は国司となるのだが、これはせいぜい現代の県知事程度であり、物語の主人公の最後にはスケールが小さいような印象を受ける。
これは、「天皇の血筋を継ぐ者ががんばっても国司どまりだった」という現実も意味しているのだが、同時に、当時は都で役人になるより、地方の国司になった方が「おいしい思い」をできた事も意味している。
今昔物語に「芋粥」という話がある。
都の役人が「芋粥を腹一杯食べたい」と言うのを聞いて、敦賀の役人が自分の領地に連れていき、そこで大量の芋粥を作ってみせる。
まるで狐につままれたような都の役人に、敦賀の役人は土産や馬まで持たせて帰すというものだ。
この話には誇張もあるだろうが、都の人間が逆に地方にあこがれを持っている様子も分かる。
荘園の開発などで地方の役人の方が豊かだったと考えられる。
「御伽草子」のまとめられた室町時代の終わりというと、京都が焼け野原になった頃であり、それもなおさらだったのかもしれない。
・地頭
元々は鎌倉幕府(源頼朝)が義経を追って捕らえるという名目で、守護とともに全国に配置させた役職。
主に公領や荘園に配置され、土地の管理や年貢の徴収を行った。
力を無くしたものの朝廷(国司)による支配もこの時代続いており、しばらくは二重支配の時代が続いた。
武士の時代が続くにつれ、後に「大名」となる守護とともに権力を持つようになっていった。
「ものぐさ太郎」にも地頭が出てくるが、平安時代には教科書に載っている意味での地頭はいなかった。
ただし荘園領主である「荘官」の別名としてこの語が使われていたらしい。
しかし、登場する「地頭」は鷹狩りをするほどの武士であるので、荘園を開いた領主とは考えにくい。
あるいは物語がまとめられる過程で「地頭は昔からいるのだ」という事を忍び込ませ、地頭の地位が揺らぐのを防ぎたかった人間が横やりを入れたのかも知れない。
なお「地頭」という言葉はその後江戸時代には「地主」という意味で使われ、だからこそ「泣くこと地頭には勝てぬ」という言葉が残ったのだと以前三遊亭圓楽氏は語っていた。(「圓楽のよろずガイダンス」より)
現代において、新村の「ものぐさ太郎」はその遺跡地とされる場所を広げたが、これはまさに地頭(地主)の心を動かす人物であり続けている証拠である・・と言えなくもない。
・鷹狩り
物語の中の地頭は鷹狩りへの途中太郎と出会う。
本来武家のする事と一般には思われている事なのだが、実はもとは貴族が行っていた。
大伴家持は越中の国司時代、鷹あるいは鷹狩りを多く詠んでおり、万葉集にも出ているという。
地頭(あるいは守護)の鷹狩りは建暦二年(1212年)に鎌倉幕府により禁じられたが、諏訪大明神の御贄狩(みにえがり)だけは例外とした為、多くの武士による諏訪神社の勧請が行われ、諏訪神社と鷹狩りは結びつきを深めていく。
・長夫
「ものぐさ太郎」は長夫、あるいは夫役として京に上る。
これは税として納める労働力を意味している。
(つまり税金の代わりに働けという事)
この話の中では、村の誰かが行けば良いという事になっているようだが、村(荘園)では働いていない「ものぐさ太郎」にも戸籍はあったのだろうか?
もっとも荘園の中の農民の多くは、口分田を逃げ出した者であり、管理者たる地頭(荘官)により戸籍は隠されていたのかもしれない。
このあたりは当時のあやふやな世相を象徴しているようにも思える。
・二度の食事
ものぐさ太郎に感銘を受けた(?)地頭が掲げた高札に書かれた言葉。
「毎日三合飯を二度食わせ、酒を一度飲ませよ」などの言葉が書かれたという。
現在の一日三度の食事というのは、まさにこの話がまとめられた室町時代から広まった習慣であるようだ。
・寝太郎系
昔話の分類の上でよく言われる言葉。
「三年寝太郎」という、寝てばかりに見えて、実は村に用水を引くことを考えていた青年の話がその名の由来になっている。
他に「昼行灯と言われていたものの、実は佐渡金山の金を合法的に手に入れる事を考えていた若旦那」の話など、色々な「寝太郎系」昔話が存在する。
「バカに見える人間だからといってバカにしちゃいけない」という、人間生活の基本を子供達に教えるのに貢献している。
「ものぐさ太郎」もこの分類に入るようだ。
・穂高神社
長野県穂高町(ほたかまち)にある神社。
海人(わだつみ)族である安曇一族の先祖が祀られているが、信濃の中将(ものぐさ太郎)も合祀されている。
安曇一族は安曇野を開拓したと伝えられており、かつて湖だったという安曇野を平野にしたという泉小太郎と結びつけて考える人も多い。
であるならば、まさにこの地の二大ヒーローの祀られた神社であると言うこともできるのではないだろうか?
・本地物
「本地」とは「由来」とか「いわれ」という意味。
神仏の由来について書かれた書物の事。
実際の歴史上の由来を示す場合もあれば、話の作者やその時々の為政者の意向(?)が反映される場合もある。
多くは神仏がもとは人間であったことを説いている。
「ものぐさ太郎・おたかの本地」は「穂高明神のいわれ」という形を借りて書かれている。
・四本柱
「ものぐさ太郎」は竹の柱を四本立て、こもをかぶせて住んでいたようである。
以前私はこれを海の近くで見られる「苫屋」ではないかと推測した(私自身は、ものぐさ太郎は海人族と考えている)のだが、考え方を変えて屋根ばかりでなく全体にかぶせたとすると、奈良時代頃までは存在した「竪穴式住居」の構造と合致する。
話をまとめた人間が「昔の家の建て方」を知っていたためそれを織り込んだのではなかろうか?
あるいは、これはこの地の神社に見られる「御柱」という、神社の周囲に立てられた四本の柱を意味しているとの説もある。
地鎮祭などではまさに竹の柱を四本立てて、一種の「聖域」を作るのだが、これとも関係有るのかもしれない。
以前私は、「ものぐさ太郎」の住んでいた場所を、他の人に咎められない、古代には神社に捧げられた人がいるなどの事から「神社の境内」と推測したが、あながち間違っていないのかもしれない。
おいおい追加していきます。
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